休職してから最初の1か月は、自分が何者かわからなくなった。
会社員として働き、父親として子どもたちを養う。それが自分の役割だと思っていた。でも体が動かなくなり、仕事に行けなくなって、家にいるだけになった時、「自分はここにいていいのか」という気持ちが消えなかった。
退院後すぐに休職、そして再休職
コロナのICUから退院した後、すぐに休職に入った。最初から期間を決めていたわけではなかった。体を回復させながら、様子を見ながら休むという形だった。
6か月後、「もう大丈夫だろう」と思って復職した。実際に復職もできた。でも体はついてこなかった。その夏、出社しようとして会社最寄りの駅に着いた瞬間、熱中症で倒れた。駅のホームで意識が遠のいた。「やはりまだ無理だ」と思った。そこから再び休職に入った。2度目の休職もおよそ半年続いた。
合計で1年以上、まともに働けない時間があった。コロナ後遺症というのは、本人が「もう治った」と思ってもぶり返す。外から見てもわからないから、周囲に理解してもらうことの難しさもあった。
一番つらかったのはお金のことだった
休職中、精神的に一番きつかったのは体のことではなかった。お金のことだった。
傷病手当金は給与の約3分の2が支給される。でも子ども4人、住宅ローン、毎月の生活費。どう計算しても足りなかった。毎月、貯金が減っていく。どんどん減っていく。あっという間に底をついた。
お金が減っていくのを毎月見ながら、「このまま働けなかったらどうなるんだろう」という考えが頭から離れなかった。体が動かないから働けない。でも働かなければお金が続かない。その板挟みがメンタルを蝕んだ。体より心のほうが先にきつくなっていった。
そんな中で重要だったのが、会社との折衝だった。リモートワークをどこまで認めてもらえるか。上司や人事と何度も話し合いを重ねた。出社が難しい状態でも在宅で貢献できる形を探すこと、それが収入を少しでも維持するための現実的な道だった。会社が柔軟に対応してくれたことには、今でも感謝している。
また、この時期に改めてお金の管理を見直した。妻と家計をすべて共有し、月ごとの収支を一緒に確認する習慣を作った。「いくら減っている」を二人で見ることで、逆にパニックになりにくくなった。一人で不安を抱え込まず、数字を共有する。それだけで精神的な負担がかなり軽くなった。FP2級の知識があったことも、数字を整理する上では役立った。
朝ごはんは結婚した時から作っている
休職とは少し話が変わるが、朝ごはんを作るのは私の担当だ。これは休職が始まってからではなく、結婚して保険代理店に転職した頃からずっと続いている。
代理店の仕事は、外資系の会社員時代と違って出社義務がそれほど厳しくなかった。朝の時間に少し余裕が生まれた。それで自然と「朝ごはんは自分が作る」という流れになった。妻は洗濯やその他の家事を担う。自然な分担だった。
妻は「台所にどんどん入ってきてほしい」という人だ。「私の縄張りに入るな」というタイプではない。だから台所に立つことに気を使わなくて済んだ。それも続けられた理由の一つだと思う。
休職中もその習慣は変わらなかった。働けない時間が続いても、「朝ごはんを作る」という役割があった。毎朝、家族のために何かをする。それが「稼げていない」という罪悪感に少しだけ対抗できる何かになっていた。小さいことだが、朝ごはんを作れる日は、自分がここにいていいと思える日だった。
子どもたちは何も言わなかった
子どもたちは、父親が休職していることについて、特に何も言わなかった。
責めることも、心配そうな顔を見せることも、あまりなかった。逆に優しかった。子どもなりに気を使ってくれていたんだと思う。そのことが、かえってありがたくて、切なかった。
「それに答えたい」と思った。家にいる間、家でできることは何でもやろうと決めた。妻のためにも。子どもたちのためにも。「稼いでいない」という事実は変えられない。でも「いる」ことで役に立てることを探そうと思った。
体力がある日は近所のスーパーに買い物に行き、体調が悪い日は横になりながらでも翌日の夕飯を何にするか考えた。家のことを考えることで、「自分はここにいていい」という感覚をどうにか保っていた。休職中にしかできない関わり方があると気づいたのは、この頃だった。
妻が切迫入院した1か月|子どもたちが変わった
妻が切迫早産で入院したことがある。約1か月間、家に妻がいない生活になった。
子どもたちと私だけで家を回さなければならなかった。洗濯・掃除・ご飯の準備と片付け。すべてを一緒にやった。我が家に乾燥機はない。普段は2階のベランダに天日干しするのだが、体力が落ちた自分には洗濯物を2階まで持っていくことができなかった。だから洗濯は全部浴室乾燥にかけていた。光熱費はかかったが、それ以外の選択肢がなかった。「今日は誰が何をするか」を子どもたちと決めて、順番に担当を回した。
最初はぎこちなかった。でも1週間もすると、子どもたちなりのペースができてきた。小さい子は自分の食器を下げることを覚えた。上の子は洗濯物をたたむのが上手くなった。「お父さん、浴室乾燥終わったよ」と教えてくれるようになった。
正直に言うと、この1か月は大変だったが充実していた。子どもたちのスキルが目に見えて上がったし、一緒に「家を回す」という経験が家族の連帯感みたいなものを作った気がした。
ただ、妻が退院して帰ってきたら、子どもたちはあっという間にやらなくなった。「もうママがいるから」という感じで、自然とお任せモードに戻った。子育てあるあるだと思うが、少し笑えて少し残念だった。
休職中にできたこと|子どもの学校に関わる
体調が許す範囲で、子どもたちの学校に関わるようになった。
学校の先生とよく電話をした。連絡帳も書いた。今まで仕事で帰りが遅く、こういうことは妻に任せきりだった。休職中は時間だけはあった。担任の先生と話す中で、子どもたちの学校での様子が見えてきた。知らなかったことがたくさんあった。
子どもたちの成長を間近で見ることができたのも、この時期だった。普段は仕事で見逃していた「小さな変化」に気づけるようになった。背が伸びた、友達が増えた、苦手だったことができるようになった。そういうことを一緒に喜べる時間が生まれた。
働いていた時には気づかなかったことがあった。子どもたちは「お金を稼いでくる父親」より「一緒にいる父親」を求めていた。それを、休職して初めて実感した。
「稼がない父親」でいることの罪悪感
休職中、頭を悩ませていたのはお金だけではなかった。「自分は父親として失格なのではないか」という気持ちが、ずっとつきまとっていた。
社会通念として、「父親はお金を稼ぐもの」という感覚が自分の中にある。それは今の時代には古い考え方かもしれないが、50代という世代が育ってきた環境では当たり前のように刷り込まれてきた。だから稼げない自分が、ひどく情けなく感じた。
朝ごはんを作っている時だけは、その感覚が少し和らいだ。子どもたちが「おいしい」と言ってくれる。それだけで「今日も役に立てた」という気持ちになれた。小さなことだが、積み重なると大きかった。結婚してからずっと続けてきたこのルーティンが、休職中に精神的な支えになるとは思っていなかった。
体が動かない時間が続くと、「何もできない自分」という感覚に飲み込まれそうになる。そんな時に「でもご飯は作れた」という事実が、辛うじて自分を保つ錨になっていた。
妻から言われた一言
休職して数か月が過ぎた頃、妻に「申し訳ない」と言った。
妻の答えは意外だった。「今まであなたがいなかった時間のほうが長かった。今のほうがいい」と言った。
仕事優先で家を空けてきた年月を思い返した。早朝に出て、深夜に帰る。土日も仕事のことが頭から離れない。そういう夫・父親だった時期が長かった。「いるだけでいい」という言葉が、この時ほどリアルに響いたことはなかった。
休職という経験が残してくれたもの
今は復職して働いている。体の状態は完全ではないが、うまく付き合いながら仕事をしている。
休職中に学んだことは、仕事に戻ってからも生きている。「無理しない」こと。「できないことを認める」こと。「家族との時間を優先する」こと。そして、お金が減っていく恐怖を実際に経験したからこそ、ストック型の収入を作ることへの本気度が上がった。55歳での独立を考えるようになったのも、あの休職期間の経験が土台にある。
休職前は「仕事をしているから家族を養えている」という感覚しかなかった。でも休職して稼げなくなった時、妻も子どもたちも、自分のことを必要としていてくれた。「いること」に価値があると、初めてわかった。
朝ごはんを作り続けたこと、学校の先生と電話をしたこと、子どもたちと洗濯物をたたんだこと。どれも「仕事に比べれば小さなこと」だと思っていた。でも今振り返ると、そういう積み重ねが家族との関係を変えた。子どもたちとの距離が縮まった。妻との会話が増えた。そしてそれは、復職してからも続いている。
休職は人生の「空白」ではなかった。むしろ、それまでの生き方を見直すための「必要な時間」だったと今は思っている。稼がない父親でも、家族は必要としてくれていた。それを知ることができただけで、あの時間には意味があった。
▼ あわせて読みたい
- コロナ後遺症で休職1年間|50代会社員が学んだこと
- 会社に迷惑をかけ続ける罪悪感とどう向き合ったか
- 「強いパパ」でいられなくなった日
- 子ども4人の父親をやってわかったこと
- 50代父親が作る朝ごはん|糖尿病でも食べられる我が家のルーティン
この記事は個人の休職・療養経験に基づく記録です。
父親として働けない期間、家計をどう支えたかはこちらに書いています。 収入激減時に家計をどう守ったか

