コロナICU体験談|デルタ株で肺がつぶれ人工呼吸器をつけられた日

コロナICUで死にかけた話|デルタ株で肺がつぶれた日 健康と働き方

「し・ん・ぱ・い・か・け・て・ご・め・ん・ね」

50音が書かれたボードを指で一文字ずつ差しながら、私はそれだけを母に伝えた。口はきけなかった。声が出なかった。人工呼吸器が外されたばかりで、言葉にならなかった。

ガラス越しだった。病室の窓の外に、母が立っていた。

あの瞬間が、意識を失う前の最後の記憶だ。

コロナのデルタ株が猛威を振るっていた夏。私はICUで人工呼吸器をつけられ、5日間意識を失った。肺は白くつぶれていた。酸素濃度は83まで落ちていたのに、息苦しさは感じなかった。搬送先の病院が見つからず、救急車の中で何時間も待機した。

退院したのは45日後。体重は17kgも落ちていた。

これは、その記録だ。

ワクチン予約が取れなかった、その矢先だった

2021年の夏。デルタ株が日本で急拡大していた頃、私はまだワクチンを接種できていなかった。

当時のワクチン接種は、年齢によって順番が決まっていた。私の年代にようやく接種の案内が届いたのは、デルタ株の感染が急増し始めた頃だった。「やっと来た」と思い、すぐに予約サイトを開いた。

空き枠が、ない。

どの会場も、どの日程も、予約画面を開いた瞬間には埋まっていた。当時のワクチン予約は「争奪戦」と呼ぶしかない状況だった。毎朝、スマホでキャンセル枠を確認した。昼休みも確認した。夜寝る前も確認した。それでも取れなかった。

「もう少しで取れる」そう思いながら、数週間が過ぎていた。

そのときに、感染した。

ワクチンを打てなかったのは、怠慢ではなかった。でも、打てなかったことには変わりない。「接種済みなら重症化しなかったかもしれない」という思いは、今も頭の片隅にある。ただ、それを考え続けても仕方がない。あの時の自分にできることは、全部やっていた。

コロナ発症|会社で感じた異変

異変を感じたのは、会社でだった。

なんとなく体が重い。熱っぽい。でも「まさかコロナではないだろう」という気持ちが先に来た。当時の職場では、数人の同僚が感染していた。みんな軽症で、「コロナになっちゃったよ」と冗談っぽく話すくらいの雰囲気だった。

「自分もそうだろう」と思っていた。

帰りの電車の中で、妻にメッセージを送った。「帰ったら子どもたちに会わずに部屋にこもる」。帰宅してそのまま自室に直行した。翌日、検査を受けてコロナ確定。即日出社停止になった。

その連絡をしながら、私はまだ「軽症で終わる」と思っていた。

自宅隔離の4日間|ドアの向こうの声

確定後、4日間は自宅で隔離された。

部屋から出られない。子どもたちの声は廊下の向こうから聞こえる。妻がドアの前に食事を置いてくれる。そんな日が続いた。

子どもたちはドアを叩いていたらしい。「パパー」と呼ぶ声がした。返事はした。でも、ドアは開けられなかった。

その頃、妻のお腹には4人目がいた。妊娠後期だった。

3人の子どもを一人で見ながら、夏休みの真っ只中で、夫はコロナで隔離中。それだけでも十分すぎるくらい大変な状況だ。しかも感染するわけにはいかない。妻自身が倒れたら、家が回らなくなる。

その重圧を、妻は一人で引き受けていた。

保健所から「ホテル療養に移れる」と連絡が来たとき、私は正直ほっとした。家族への感染リスクが一番怖かった。自分が別の場所に移れば、少なくともその心配は減る。

ホテル療養|単調な日々と、忍び寄る異変

県内のホテルに移り、個室での療養が始まった。

1日の流れは単調だった。朝起きる。廊下に置かれた弁当を取りに行く。テレビを見る。寝る。それだけだ。昼食も夕食も弁当。部屋から出られない。誰とも話せない。

1日に数回、常駐の看護師から備え付けの電話が鳴る。「体調はいかがですか」「熱はどうですか」。それだけが外との接点だった。

一番つらかったのは夜だった。テレビを消すと、静かなホテルの個室に一人きりになる。体調は少しずつ悪くなっている気がする。でも「気のせいかもしれない」という言い訳もできる。確かめる相手がいない。天井を見つめながら、いろんなことが頭を巡った。

目の前が少しずつ暗くなっていくような感覚があった。

それが体の症状なのか、気持ちの問題なのか、当時の自分には判断できなかった。最初は「ここで回復を待つだけだろう」と思っていた。

自覚症状がないまま、酸素濃度が83に落ちた

異変は、静かに進んでいた。

息苦しさは、なかった。

これが一番怖いことだったと、今振り返ると思う。肺がダメージを受けているのに、苦しくない。体の中で何かが起きているのに、感覚がない。

最初に気づいたのは味覚だった。弁当が美味しくない。何を食べても味がしない。「体調が悪いからだろう」くらいにしか思わなかった。

そしてパルスオキシメーターの数値が、みるみる下がり始めた。

小さな酸素吸入器がつけられた。それでも数値は下がり続けた。目の前の景色に影ができ始めた。視界の上半分が暗くなっていく。看護師に話す言葉も、だんだん支離滅裂になっていたらしい。

でも自分ではわからない。苦しくないから、「大丈夫」だと思っている。

最終的に酸素濃度は83まで下がった。正常値は96以上。90を下回ると「呼吸不全の疑い」とされる水準だ。83というのは、静かに死に近づいている状態だった。

それでも、私は苦しさを感じていなかった。

看護師が「まずい」と判断して、救急車を呼んだ。

もうろうとした意識の中で、3か所にLINEを送った

救急車が呼ばれる前後、もうろうとした意識の中で、私は3つの宛先にLINEを送っていた。

妻、会社、実家。

意外にも、それぞれとやりとりをしていたらしい。自分では記憶が曖昧だが、履歴には残っている。あの状態で何を伝えようとしていたのか。たぶん、最後のつもりだったのだと思う。

救急搬送|病院が、見つからない

搬送が決まった。でも、受け入れ先の病院が見つからなかった。

救急車の中で何時間も待機した。意識はあったと思う。でも、現実かどうかの判断がついていなかった。救急士が誰かと話している声が聞こえる。何を言っているのかは、断片的にしか入ってこない。

「○○病院、満床です」
「△△病院も受け入れ不可」

そんな声が、耳に届いた。

自分の命が、たらい回しにされている。そういう感覚はあった。でも、抗議する気力がない。ただ横たわって、音だけを聞いていた。

あの時間がどれだけ長かったか、正確にはわからない。ただ、とても長かった。

のちに聞いた話では、当時の救急搬送の受け入れ不可は社会問題になっていた。重症患者が増えすぎて、ICUのベッドが圧倒的に足りない。私の搬送も、その波の中にあった。

ICUで人工呼吸器をつけられた日

やっと病院が決まり、搬送された。即ICUだった。

レントゲンを撮られた。肺が白くつぶれていた、と後から聞いた。新型コロナの重症肺炎は「白肺」と呼ばれる状態を引き起こす。正常な肺は黒く映るが、炎症で肺が機能しなくなると、レントゲンに白い影が広がる。私の肺は、それが起きていた。

医師が耳元で言った。

「これから強い治療をします。意識が戻ったら、生きていた、ということです」

つまり、戻らない可能性がある。そういう意味だった。

妻は臨月で子ども3人を抱えていたため、病院には来られなかった。代わりに、駆けつけた母が病室の窓越しまで来ることを許された。

もうしゃべることができなかった。声が出なかった。50音の文字盤を使って、一文字ずつ指を差した。

「し・ん・ぱ・い・か・け・て・ご・め・ん・ね」

それが、意識を失う前の最後のやりとりだった。そのまま麻酔が入り、意識がなくなった。

私が眠っていた5日間|妻が一人で抱えていたこと

私には記憶がない。5日間、ただ眠っていた。

その間、妻は何をしていたか。

お腹に4人目を抱えたまま、3人の子どもを一人で見ていた。夏休みだった。子どもたちは家にいる。食事を作り、宿題を見て、お風呂に入れて、寝かしつける。それを一人でやりながら、夫がICUで意識不明という現実を抱えていた。

病院には行けない。電話でも、夫には繋がらない。連絡は医療スタッフを通じてだけだ。「今日も変わりありません」という言葉を、毎日待っていた。

後から妻に聞いた。

「大変だったから、逆に気がまぎれた」

この一言が、ずっと頭に残っている。

子どもたちのことで手がいっぱいだったから、考えすぎる時間がなかった。それが救いだったのかもしれない。でも、どんなに忙しくても、夜子どもたちが寝静まった後は一人だ。臨月の体で、何を考えていたか。私には想像することしかできない。

妻はこの話をするとき、いつも淡々としている。大変だったことを、大変だったとは言わない。それが余計に、重く胸に刺さる。

麻酔から5日後に目覚めた

目を開けた時、5日が経っていた。

最初に何を思ったか、正直はっきりとは覚えていない。ただ、「生きていた」という事実だけがあった。

体を見ると、両腕に点滴が8本ほどつながっていた。おしっこ用のドレーン。オムツ。マスク型の呼吸器。人工呼吸の管は外されていたが、呼吸器のマスクの中に水が溜まり、息苦しかった。

呼吸器を外してもらうと、息切れが起きた。数分話すだけで苦しくなる。今思えば、後遺症はすでにここから始まっていたのかもしれない。

目覚めて1週間ほど経った頃、子どもたちからの手紙が届いた。

「早く良くなってね」
「いつもありがとう」
「早く一緒に遊びたい」

面会はできなかった。でも、手紙は届く。あの時の嬉しさは、今でもはっきり覚えている。

ICUを出られたのは、そこからさらに2週間後のことだった。

コロナ味覚障害|梅干しで塩味がわかった日

通常病棟に移ってからも、しばらくは何を食べても味がしなかった。

バナナを食べた。ただ柔らかいだけで、甘くない。リンゴも、食感だけで味がない。食べても食べても、何も感じない。

毎食、梅干しを食べた。塩味がわかるかどうかを確認するために。

5日目くらいだったと思う。梅干しを口に入れた瞬間、酸っぱさと塩味が来た。

「戻ってきている」

そう思えた瞬間だった。小さなことのように見えるかもしれない。でも、「感覚が戻る」ということがどれだけ嬉しいか、あの経験をした人にしかわからないかもしれない。

体重17kg減|歩き方を忘れた体

退院時、体重は17kg落ちていた。

筋肉がすべて落ちていた。入院中はほぼ動けない。体を横に転がすこと、寝返りを打つことすら、最初はできなかった。

「寝返りが打てた」。それが最初の回復の実感だった。

そこから、少しずつ。座れるようになった。立てるようになった。でも、立てても歩けなかった。足の動かし方がわからない。力の入れ方が思い出せない。歩き方を忘れたような感覚だった。

リハビリの理学療法士が言ってくれた言葉がある。

「まだ40代でよかったですね。60代以降の方は、ベッドが足りなくて断られていたケースもありましたから」

そして、こう続けた。

「筋力は時間をかけて戻しましょう。入院する前よりも、いい体で退院しましょう」

「入院前よりもいい体で」。この言葉が刺さった。今の自分がゼロなら、ゼロから作り直せばいい。そう思えた。

入院期間は約45日。退院するまでのリハビリは、今思い返しても壮絶だった。

45日ぶりに家に帰った日

退院の日、両親が車で迎えに来てくれた。

窓の外を流れる景色が、45日前と同じなのに全然違って見えた。信号待ちで止まった時、道を歩いている人たちを見た。普通に歩いている。普通に買い物袋を持っている。

あの「普通」が、自分にはもうできないかもしれないと思っていた。

病院から家に到着した時、我が家を見て涙が出そうになった。

子どもたちはいつものように接してくれた。特別扱いしない。騒ぐ。ふざける。45日間いなかった父親への気遣いより、「パパがいる」という喜びの方が上回っていた。それが正直、一番嬉しかった。

入院中はLINE電話で声は聞いていた。でも、実際に目の前にいるのとは全然違う。

家に帰れた。それだけで、十分だった。

退院してすぐ、妻が入院した

私が退院してすぐのことだった。妻が切迫早産で入院した。

4人目を身ごもったまま、私の入院中ずっと3人をワンオペで見ていた。夏休みの間も、休みなく動き続けていた。体に無理がかかっていたのは当然だった。

妻の入院中、最初は妻の両親が来てくれていた。でも私は、あえてワンオペを選んだ。

体はまだ回復途中だった。しかし、これは自分が動けるタイミングだと思った。子どもたちにも、この状況の中で少しできることを増やしてほしかった。

週に1日くらいは自分の両親に手伝ってもらいながら、基本は自分一人で3人を見た。

子どもたちにできることが増えた。洗濯物をたたむ。食器を片付ける。小さなことだが、子どもたちにとって自信になったと思う。あの期間は大変だったが、家族全員が少し強くなった時間だった。

入院費用と保険給付金の話

あまり語られることがないが、お金の話も書いておきたい。

コロナ禍の当時、コロナの治療費は「公費負担」だった。病院での治療そのものは、患者の自己負担がほぼなかった。ICU、人工呼吸器、45日間の入院。通常であれば数百万円規模になりかねない医療費が、公費で賄われた。

ただし、それ以外の費用はかかった。ホテル療養中の雑費、退院後のリハビリ関連、通院費など。実費での持ち出しは、トータルで20万円強だったと思う。

そして、医療保険の入院給付金を受け取った。

私は終身医療保険に加入していた。入院日数に応じた給付金が支払われる、シンプルな保険だ。45日間の入院に対して、給付金が支払われた。「本当に使える時が来るとは思っていなかった」というのが正直な感想だ。

保険は「いざという時のため」と言われる。しかし多くの人は、自分に「いざという時」が来るとは思っていない。私もそうだった。でも、来た。そして保険は機能した。

ICUを出た後、妻に「保険料を払い続けていてよかった」と伝えた。

コロナ後遺症と、今の自分

退院後、生活は変わった。

体力が戻らない。少し動くだけで疲れる。仕事に復帰したが、数ヶ月で体が限界になった。慢性疲労症候群のような症状が今も続いている。

コロナの影響で糖尿病にもなった。HbA1cが7.1まで上がった。食事管理を続けて、今は6.1まで下げている。その経緯は別の記事に書いている。

以前のような体には戻っていない。

それでも、生きている。家に帰れた。子どもたちの顔が見られる。妻と話ができる。4人目の子どもが生まれ、家族6人でいられる。

あの文字盤を指差した瞬間、「もう会えないかもしれない」と思っていた家族に、また会えている。

同世代の人へ|「まさか自分が」という油断の怖さ

あの体験から学んだことを、一つだけ書く。

「まさか自分が重症化するとは思わなかった」

これは言い訳ではない。本当にそう思っていた。職場の同僚も軽症だった。コロナは「熱が出て数日で治る病気」だという空気があった。私はそれを信じていた。

でも、デルタ株は違った。当時、重症化リスクは今より圧倒的に高かった。特にワクチン未接種の場合は。

私はワクチンを怠っていたわけではない。毎日空き枠を確認していた。でも取れなかった。その矢先に感染した。

運の要素もある。でも、備えは関係ない、ということにはならない。

50代という年齢は、体力がまだあるように見えて、実は重症化リスクが高い年代だ。コロナに限らず、インフルエンザ、肺炎、手術が必要な病気。「大丈夫だろう」と思っているうちに、静かに体が悲鳴を上げていることがある。

私の酸素濃度が83になっても、息苦しくなかったように。

同世代の方に伝えたいのは、「症状がないからといって安心するな」ということだ。定期健診に行ってほしい。保険を見直してほしい。家族との会話を、後回しにしないでほしい。

「いつ死ぬかわからない」という感覚は、ICUを生き延びて初めて体で理解した。

言葉ではなく、体で。

このICU体験が、後に私が副業を始める直接のきっかけになった。その経緯はこちらの記事に詳しく書いた。


▼ あわせて読みたい

この記事はデルタ株が猛威を振るっていた2021年夏の体験です。現在の新型コロナの状況とは異なる点があります。

子どもたちへの伝え方については、子どもに「パパは病気」とどう伝えたかに詳しく書いている。

退院後に子どもたちがどう反応したかは、ICUから帰った父を、子どもたちはどう見ていたかに書いた。

この経験がきっかけで、家族6人分の保険を根本から見直しました。実際にどう設計し直したかはこちらに書いています。 家族6人分の保険を元プロが設計した話

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