目の前の風景が、上から黒いカーテンがかかるように暗くなっていった。
ホテル療養中の部屋の中で、じわじわと視界が狭まっていく。息苦しさも痛みもなかった。ただ静かに、世界が暗くなっていった。あれが「死に近づいている」ということだったと、今ならわかる。
会社で発熱した日から始まった
デルタ株が猛威を振るっていた2021年夏。会社で突然発熱した。
翌日、コロナの確定診断が出た。まずは自宅で4日間の隔離。その後、保健所の手配でホテル療養に移ることになった。迎えに来たのは市役所の職員だった。車で1時間半ほど離れた場所にあるホテルまで送ってもらった。ホテルは普通のきれいなビジネスホテルだった。廊下には他の療養者もいるはずだが、姿は見えない。部屋に入ったら出てはいけない。食事はドアの前に置かれる。誰とも話さない、完全な孤立状態だった。
「軽症の方が対象です」と言われていた。その時点では確かに、そこまで悪くはなかった。37度台の熱と倦怠感。つらいが、動けないほどではない。まさかここから急変するとは思っていなかった。
ホテル療養の日常|一人で過ごす孤独な時間
ホテルでの生活は単調だった。朝・昼・夜と弁当がドアの前に届く。普通の仕出し弁当だ。幕の内弁当のようなシンプルな内容のものが届く。それを部屋に取り込んで食べる。テレビを見るか、スマホを見るか。それだけだ。
最初の1〜2日は食べられていた。でも日が経つにつれて、弁当を開けても食欲がわかなくなっていった。味がしない。匂いもない。箸をつけてみても、何かを食べている感覚がない。「コロナだから味覚がおかしいのかな」と思いながら、残すことが増えた。後から思えば、それが悪化の始まりだった。
外には出られない。窓から外を見ることはできるが、ただの景色だ。家族には電話できるが、会うことはできない。子どもたちの声を聞くたびに、早く帰りたいという気持ちになった。それでも「軽症だから大丈夫、あと数日で帰れる」と自分に言い聞かせていた。
ただ、一つ不安なものを持ち込んでいた。パルスオキシメーターだ。自宅隔離中に用意していたものを持参した。定期的に指に挟んで血中酸素濃度を確認する習慣をつけていた。正常値は96〜99%程度。95%以下になると要注意、90%以下は医療が必要なレベルだ。息苦しさの自覚がなくても数値が落ちていることがある。「数値が低ければすぐに連絡する」という判断基準を持っていたことが、後に命取りになりかけた変化をいち早く教えてくれた。
静かに進む異変|息苦しさより先に失われたもの
ホテル療養が始まって数日後から、異変に気づいた。
息苦しさや胸の痛みは、まったくなかった。だから自分ではなかなか「悪化している」とわからなかった。最初に気づいたのは味覚の変化だった。毎食届くお弁当の味がしなくなってきた。食欲が落ち、弁当を残すことが増えた。「コロナだから味覚がおかしいのかな」と、その時はまだ軽く考えていた。
そしてある日、視界が変わり始めた。目の前の風景が、上から黒いカーテンがゆっくりと降りてくるように暗くなっていく。痛みもなく、苦しくもなく、ただ静かに視界が狭まる。「これはおかしい」と思ってパルスオキシメーターを確認すると、90を下回っていた。
ホテルの看護師に連絡した。症状を伝えると、「救急の手配をします」という返答が来た。その瞬間、はじめて「自分はかなり悪いのかもしれない」と実感した。
救急車の玄関横付け|4時間、ただ待った
救急車が来た。でも、そこからが長かった。
当時はどこの病院も満床だった。コロナ患者を受け入れられる病院が、圧倒的に足りていない時期だった。救急車はホテルの玄関に横付けされたまま動けない。隊員が次々と病院に電話をかけ続けた。断られる。また電話する。また断られる。その繰り返しを、救急車の中から聞いていた。
4時間、救急車の中で待った。
若い救急隊員が「大丈夫ですよ、必ず見つかります」と声をかけてくれた。酸素マスクをつけてもらいながら、その声を聞いていた。
何も考えられなかった。体は動かない。思考も追いついていない。目をつぶっていた。隊員が電話をかけ続ける声が聞こえていたが、それが現実の声なのか、自分の中の幻聴なのか、区別がつかなくなっていた。病院が見つかったのか断られたのかも、よくわからないまま耳に入ってくる。自分には何もできない。ただそこにいるだけだった。
パニックにはならなかった。怖いという感情もはっきりしなかった。今から思えば、それは酸素が脳に十分に届かなくなって、もうろうとしていたからだと思う。意識がはっきりしていたら、もっと怖かったはずだ。逆に、あのぼんやりした感覚が自分を守っていたのかもしれない。
妻へのLINE|返信に気づいたのは5日後だった
救急車の中で、妻に電話をかけた。深夜だった。気づかなかった。
電話が繋がらなかったので、LINEを送った。「救急車の中にいる。病院が見つからない」と。それだけ打つのが精一杯だった。送信した後、スマホを置いた。その後どうなったか、自分ではよく覚えていない。
妻がそのLINEに気づき、返信をくれていた。でも私がその返信を読んだのは、ICUで意識を取り戻した5日後だった。スマホの画面に残っていた妻のメッセージを読んだ時、涙が出た。彼女は一人で、何も知らないまま、5日間待っていたのだ。コロナ禍の面会禁止で、病院にも来られない。夫が生きているのか死んでいるのかもわからないまま、子どもたちの前で普通に過ごしながら待ち続けていた。
後から聞いた話では、妻は子どもたちに「パパはコロナで隔離されている」とだけ伝えていたらしい。危険な状態にあることは伏せていた。子どもたちは「パパが隔離中」という認識のまま、いつも通りの日常を過ごしていた。妻が一人でその重さを引き受けていた。子どもたちに心配をかけまいと、普通の顔をして5日間過ごした妻の強さを、意識が戻ってから改めて思い知った。あの5日間、妻がどんな気持ちだったかを想像すると、今でも胸が痛い。
ICUで見た幻覚
病院が見つかり、搬送された。そのままICUに入り、人工呼吸器をつけた。
意識があったのかなかったのか、よくわからない時間が続いた。その間に、たくさんの幻覚を見た。
壁に悪魔が見えた。地獄のような光景が広がっていた。部屋の外から爆音が聞こえ、外国人たちが騒いでパーティーをしているような幻覚もあった。現実と幻覚の区別がつかなかった。それが何日も続いた。後から医師に聞くと、高熱と低酸素状態による「せん妄」と呼ばれる症状だったとのことだ。ICU患者の多くが経験するらしい。でも当事者にとっては、それが本物か幻かわからないまま、その世界の中にいる。怖いとか苦しいとか、そういう感情すら曖昧なまま、ただそこにいた。
家族の知らないところで、一人で死んでいくかもしれない。最後の言葉を誰にも伝えられないまま終わるかもしれない。そういう絶望感が、もうろうとした意識の中にあった。もっと子どもたちに会いたかった。もっと妻と話したかった。そういう後悔ばかりが浮かんだ。
意識が戻って変わったこと
5日後、意識が戻った。最初に見えたのは病院の天井だった。看護師の声が聞こえた。「気がつきましたか」という声に、小さくうなずいた。それが精一杯だった。
あの経験を経て、何もかもが変わった。物事の優先順位が、根本から変わった。
幻覚の中で地獄を見て、壁に悪魔を見て、爆音の中で意識を失いかけた。そういう経験をすると、「死んだら何もない」「死ぬこと以外はかすり傷」という感覚が体に刻まれた。どんな失敗も、生きていれば取り返せる。でも死んだら終わりだ。健康と家族より大切なものはない、と本当の意味でわかった。会社の評価も、お金も、面倒な人間関係も、以前より気にならなくなった。動じなくなった。以前の自分なら引きずっていたようなことが、今はするっと流せる。あの経験がそうさせてくれた。
55歳での独立を考えるようになったのも、あの夜があったからだ。「いつ死ぬかわからない」と体で理解した人間は、「いつかやろう」とは思えなくなる。やるなら今だ、という感覚が生まれた。人工呼吸器をつけて幻覚を見ていたあの日々が、皮肉にも今の自分を前に動かしている。
コロナ禍の医療崩壊を当事者として体験した
救急車の中で4時間、病院を探し続けたあの夜。あれは「医療崩壊」という言葉をリアルに体感した瞬間だった。
ニュースで何度も聞いた言葉が、自分の体の中の話になった。断られるたびに「このまま死ぬかもしれない」という現実が近づく。医療が機能しないということは、助かる命が助からないということだ。自分の努力や意思とは無関係に、その状況に放り込まれる理不尽さがあった。誰かのせいでもなく、ただそういう状況だった。
あの夜に励ましてくれた若い救急隊員のことを、今でも思い出す。名前も顔もはっきり覚えていない。でも、あの「大丈夫ですよ」という声があったから、目をつぶって待てた。深夜に受け入れてくれた病院のスタッフ、ICUで毎日ケアしてくれた看護師。あの人たちがいなければ、今の自分はない。
死にかけた夜があった。でも生きて帰ってきた。それだけで十分だ。あとのことは、全部おまけだと思っている。
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この記事は個人のコロナ療養・入院経験に基づく記録です。
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